奈良徳融寺『大人の寺子屋・ならまちの石地蔵さん』に参加しました
2025年3月1日、奈良徳融寺で行われた、『大人の寺子屋・ならまちの石地蔵さん』に参加してまいりました。
講師は大阪大谷大学歴史文化学科教授の狭川真一先生です。

奈良地蔵プロジェクト
Code for Historyは2016年ごろから、奈良の地蔵信仰の特異性を感じて、奈良市内の地蔵(と、その他の小さな信仰関連の施設)をマッピングするプロジェクト「奈良地蔵プロジェクト」を進めてきました。

この活動を通じて、奈良の地蔵の特殊性として既にいくつか気づくところがありました。
- お寺ではない街角に、小さなお地蔵さん(として扱われている石造物)が、あちこちに祀られている
- 見つかる頻度がおびただしい。私がよく使ってきた表現で伝えると、「東京のコンビニの密度より高い」
- 1基だけポツンと祀られているものもあるが、何十という石造物が、無造作に集められて祀られているところが多い
- 地蔵堂が設けられているところもあるが、露座に固めて置かれているところもたくさんある。また、町家やマンション基礎に穴が穿たれて祀られているようなケースもある
- 他の地域で見る丸彫りや舟形背面もないわけではないが、この地域に特徴的な形態の石造物が見られる
- 箱状になった正方形の石の中に、糸人間のように非常に抽象化された尊像(私がよく使ってきた表現で伝えると、「人生ゲームのプレイヤー駒」)が刻まれたものが多くある。尊像の数も、単一のものもあれば二尊像もあり、最大三尊像を天理方面で見たことがある
- 舟形背面にレリーフ状に五輪塔とその梵字が描かれた石造物も多数ある。これは尊像が刻まれていないため、あきらかに石仏ではないですが、涎掛けを掛けられたりしているので、現地では地蔵として扱われているよう


これらに対して、かねてから以下のような疑問を持っており、これらの疑問が解決するかもと思っての参加でした。
結論を言うと、ほとんど解決しました!
- なぜ奈良では、このように多くの地蔵が祀られているのか?
- またその範囲は?
- 箱状に糸人間尊像が入った石仏について
- 何と呼ぶのが正しいのか?
- 奈良特有の仏像のように思えるが、本当に奈良独自のものなのか?
- いつの時代のものなのか?
- そもそも、地蔵なのか?
狭川先生の講演内容
以下に、狭川先生の講演内容を箇条書きでお伝えしたいと思います。

奈良町の地蔵信仰の概要
- 十王地蔵信仰
- 地蔵信仰は、地獄から人々を救済するという思想が根底にある
- 地獄にまで入り込んで救済してくださるのはお地蔵さまだけ
- 十王は、三周忌まで10回の法要に重なる時期の死後の裁判を担当し、故人の運命を決定する
- 三周忌までの法要は、十王裁判に対する現世からの応援、誓願
- 両者があわさり、十王地蔵信仰となる
- 地蔵信仰は、地獄から人々を救済するという思想が根底にある
- 奈良の地蔵
- 寺の地蔵
- 最大の地蔵は福智院
- 十輪院の石龕(がん)地蔵は、周辺に十王の浮彫
- 十王と地蔵を一緒に掘ったもので最古の像は新薬師寺。五劫寺、空海寺にもある
- 十王地蔵信仰の中心は百毫寺
- 街角の地蔵の特徴
- 町内の各所に地蔵(石仏)群が祀られており、原則として一つの町内に一つの地蔵群が存在する
- 地蔵には涎掛けがかけられている
- 元々は幼くして亡くなった子供の匂いを地蔵に付けることで、地獄で救済してもらうという願いが込められていた
- 現在では、個人的な願い事を託す対象となっている
- 石仏の種類は類似しており、石龕仏(箱仏)、舟形五輪塔(背光五輪塔)、櫛形墓碑などがある
- 大きなものは、南北朝(瓦町、京終)や鎌倉時代(西木辻)推定のものもある
- 寺の地蔵
奈良の石仏の形態の歴史
- 奈良町における葬送観の変化
- かつては奈良以外では遺体を放置する地域もあったが、奈良町では埋葬の意識が早くから根付いた
- 京都では鴨川に死体が放置され、坊さんが油をかけて燃やしたなど、仏教のお葬式はなかった
- 鎌倉時代に西大寺の叡尊が真言律宗より、人が亡くなったら供養の考えを広める
- 奈良町にも元興寺からも広まり、死者を供養する意識が広まる
- 江戸時代以前:
- 共同体の意識が強く、町内ごとに墓石を祀り、葬儀や供養を共同で行っていた
- 遺体は町内に埋めず、墓石だけを町内に祀り供養した
- 遺体は奈良の北の方(地名読めず、黒髪山あたり?)、油坂(西方寺)、大安寺、百毫寺あたりに墓地があった
- 春日の竜神池、瀧坂の首切り地蔵、地獄谷あたりも遺体の捨て場だった
- 法要は三回忌くらいまで
- 墓石の形態
- 16世紀以前: 石龕仏(箱仏)
- 正方形箱型の尊像、本来は屋根がついていたが、木の場合もあり、外れてしまった
- 年号はほとんど入っていない
- 伊賀上野で発見された箱仏に紀年の例があり(文亀永正)、16世紀前半の形態と判明
- 初期は大型だった: 称名寺の大きな箱仏=>南北朝
- 戦国時代に小型のものが大量生産
- この時代ごろ、社会下層の人もお墓を作る例が増えてくる
- 奈良は町家に住んでいる人は作り始めていた
- 称名寺に大量にある
- 一尊像、二尊像、主尊も地蔵、阿弥陀といろいろ
- 多聞城はもと墓地だった=>若草中学校作る時にも石仏が出た
- 多聞城作った時にも出た石仏は称名寺へ
- 多聞城の石垣にもされた=>大和郡山城へ
- 大和郡山城では、頭塔や羅城門の石もある
- 箱仏は奈良独自のタイプ
- 地域ごとにいろんなタイプ=>他の地域、一石五輪塔や舟形光背(京都)など
- 結論: 箱仏は室町後期から、南北朝にかけての、(16世紀まで)町家の人たちのお墓の石
- それが町ごとの地蔵堂などに祀られている
- 17世紀: 舟形五輪塔
- 舟型の形の石に、レリーフの五輪塔
- 仏塔の功徳を借りてあの世へ
- 石種:
- 叩くとキンキン鳴るグレーの石=>春日山の石
- 白いのは花崗岩
- 年号、戒名も書いており、いつ頃のものか研究されている
- 元興寺(街中)、木津の墓地(農村だが、津であり、街道もあった)、中山念仏寺(農村主体)での比較
- 1520-1760頃に作られ、1650年ごろがピーク
- 箱仏の後期から増えてきて、代わりに箱仏が減っていく
- 地域の様相にかかわらず似たような傾向
- 元興寺(街中)、木津の墓地(農村だが、津であり、街道もあった)、中山念仏寺(農村主体)での比較
- 舟型の形の石に、レリーフの五輪塔
- 16世紀以前: 石龕仏(箱仏)
- 江戸時代(18世紀)以降:
- 寺檀制度が導入
- キリスト教を禁止するため、仏教に属することを管理
- 幕府が檀家として庶民を管理する役割を寺に与える
- 寺院が葬儀や供養を管理するようになり、町内単位の共同体での葬送儀礼は衰退
- 墓は寺院に作られるように
- 墓の形式は櫛型墓碑に
- 戒名と没年、仏塔の力はいらない、戒名だけでよい
- 戒名が真ん中に、誰の墓標かの方が大事になる
- 没年=>法要のために大事、十三回忌とか記録しないと覚えられない
- 個人の供養がメインとなり、夫婦墓も出てくる、庶民も家が大事になってくる
- 結婚:家対家(現代個人対個人) => この時代からの感覚
- 家の一世代を夫婦墓が象徴
- 舟形だと情報を書く場所がなくなる=>櫛型:横にも年号が書ける
- 裏には誰が作ったかが彫られる
- 戒名と没年、仏塔の力はいらない、戒名だけでよい
- 以前からの町内の石仏(墓碑)は、そのまま祀られ続ける
- 箱仏、舟形五輪塔が中心で、櫛型石碑が少ないのは、葬送制度の変化が原因
- 記憶が残っていた初期のころは、遠い先祖の墓として細々供養
- だんだんよくわからないけど町内にあるので供養=>あれはお地蔵さんやということに
- 明治に近いころになって、地蔵盆という形式が定着して現在へ
- 寺檀制度が導入
- かつては奈良以外では遺体を放置する地域もあったが、奈良町では埋葬の意識が早くから根付いた
結論
- 奈良町の地蔵(元々は墓石)は、町内単位で供養されていた
- 特徴的な形式は、16世紀の箱仏と、17世紀の舟形五輪塔
- 江戸時代の寺檀制度により、寺院が庶民を管理するようになると、町内での新規供養は衰退した
- 既存の石仏は地蔵として祀られ、現在では、子供の守り神としての認識が一般的になっている
講演を受けて
関東からわざわざ足を延ばして聴講に伺った甲斐がありました。
知りたかった知識がほぼ明らかになりました。
- なぜ奈良では、このように多くの地蔵が祀られているのか? => 江戸時代以前の地域の人の墓石だった
- またその範囲は? => 同じ起源で語れるのは、ならまちの町家領域か。村方などはまた違う様相になるのか
- 箱状に糸人間尊像が入った石仏について
- 何と呼ぶのが正しいのか? => 石龕仏、あるいは箱仏
- 奈良特有の仏像のように思えるが、本当に奈良独自のものなのか? => 伊賀で見つかっている事例などもあるが、奈良周辺のものとみて間違いない
- いつの時代のものなのか? => 16世紀以前の形式
- そもそも、地蔵なのか? => 抽象化されて以降は仏尊の種別を知りようもないが、大型だったころには地蔵だけでなく、観音や阿弥陀が彫られた例もあり、一概には言えない。が、近世以降は地蔵として祀られたことは間違いない
また、そのようである理由こそわからなかったものの、ならまちに見られる石仏/地蔵から私が感じた他の地域との特異的な差は、専門の研究者が気づいた点とほぼ一致しており、その点も自信が持てました。
疑問が解決した一方で、また新しい疑問、たとえば箱仏の存在範囲はどの程度広がるのか、なども出てきましたが、多くの情報が得られて有意義な講演への参加でした。
== 追記 ==
その後、奈良県立図書情報館にリファレンスを行い、狭川先生の講演内容に関する書籍的裏付けを教えていただきました。
箱仏の小型化について
- 狭川真一編『中世墓の終焉と石造物』高志書院、2020で、狭川氏の「中世後期に向かって石塔が小型化し、量産化される傾向にあることは一般に知られる」として、実証のための共同研究を行ったと記載
箱仏や舟形五輪塔の町単位の墓石説
- 五輪塔一般について、『日本民俗大事典』下、吉川弘文館、1999に「中世の後半からは、畿内を中心として、一石で小さく作る一石五輪塔も多くなる。こうした塔には一人か夫婦の法名が刻まれるなど、墓標的色彩が濃い」と、千々和到氏が記載
- 狭川氏の「中世都市奈良の宗教環境」(中世都市研究会『「宗教都市奈良」を考える』山川出版社、2017)によると、奈良町で箱仏と舟形五輪塔等が集められた堂は、寺檀制度成立以前(16~17世紀)の資料で管理は町有となっており、ほぼ各町内で一つ存在
- 箱仏の年代推定や墓標として成立した件は、典拠として狭川真一「戦国時代における墓地の諸相」(小野正敏, 萩原三雄 編『戦国時代の考古学』高志書院、2003)が挙げられる
- 佐藤亜聖『中世都市奈良の考古学的研究』吉川弘文館、2022p.162-165では、上記狭川説を引きつつ、浄土宗等の新興勢力の進出にも促される形で、地縁共同体に依る堂や草庵の一部が寺院化したとする
舟形五輪塔の時期集計
- ヒストグラムは『国立歴史民俗博物館研究報告』111集(2004)のp.59に掲載
- 『中世都市奈良の考古学的研究』p.100では、16世紀に墓地機構が多く見えるようとなると同時に「それまでの五輪塔に加え、小型の舟形五輪塔が出現する。これは16世紀半ば以降爆発的に数量が増加」と記載
遺体の遺棄と拝み墓
- 狭川氏の「中世都市奈良の宗教環境」(中世都市研究会『「宗教都市奈良」を考える』山川出版社、2017)にこの趣旨の指摘
- 狭川真一『中世墓の考古学』高志書院、2011のp.99-102では、富裕層は元興寺極楽堂に納骨を行っていたが、下層民は郊外に遺棄されたことを示唆
- 狭川真一編『墓と葬送の中世』高志書院、2007には「遺棄死体の諸問題」で5論考が所収、狭川氏自身の「絵画から見た遺棄葬と中世墓」も含む